従、旧来の性や性愛を語るザツなことばがとてもニガテ。品のないこともだいすきなわたしですが、それでもとってもニガテ。
わずかな感受性のカケラごとごっそりそぎ落としてしまったような、マッチョで支配的で、さげすみと権力をふりかざすようなことばたち。あーニガテ。
よくも心ある男性たちや女性たちが、こういうことばたちに性を語らせることを許してきてしまったもんだと思ってしまいます。
無自覚だった頃の欲されたかった、若かったじぶんも許してきたひとりではあったのですが。
つかうことばで見える世界は変わってくるのに、そんなことばづかいでは、性や性愛、セックスは、うす暗い密室世界に入り込んで、覆いかくされ、きたなくて、みてはいけない、ふれてはいけない、子どもたちにはぜったいに知られてはいけないものになってしまうじゃないですか。
男性主流の封建主義、家父長性というおもーい四字熟語との相性抜群の旧性愛世界。
なんだかもうよくないかな?
最近よく聞くなんたらの時代にあわないように思うんだよね。
たしかに、セックスは、清く、正しく、美しく、愛があれば、とうぜん気持ちいいでしょう、というとそうともかぎらないし、
清くなく、正しくなく、美しくなく、欲だけがあったがほうが、気持ちいい場合もあるのも、性の清濁あわせもつ寛容さというか、懐の深さというか、節操のなさかもしれないけれども。
ただね、いまの、この性と性愛の扱われかたは、陰の世界にかたよりすぎていて、陽のひざしが入りこむ余地がすくなすぎます。
バランスをとろうなんてきれいごとを言いたいわけではないけれど、それでも偏りすぎている。
まっ裸で野原でのびのび、みなさんご一緒にという、極陽の世界に行かなくてもいいけれど(わるくないかも笑)、でも、せめて中庸、ニュートラルなところにはもってきましょうよ。
そのためにも、いまいちど、じぶんの性、パートナーの性、ふたりの性を、
どこかのだれかが作りあげた、お仕着せのカラダにもココロにもあわない性ではなく、じぶんたちの本来備わっている感覚でとらえた、雑音を取り払った性を見なおしていってほしい。
とくに、つきあいが長い、長くなりそうなカップルにとっては、はげしい欲情ありきのセックスをデフォルトにしてしまうと、
最初の盛りあがり時期はいいものの、それ以降になってくると、目新しくないので飽きるという方向にむかってしまい、惰性で続けるか、やめてしまうか、もしくは、どんどん過激になっていくかの、いずれかになりがちです。
どんなセックスであってもふたりが同じ気持ちならばそれでいいのかもしれませんが、
ドーパミンたっぷりの激情からのセックスとはちがう、
ふたりの関係性が深まるような、おたがいの内面にアクセスしあうような、気持ちよさを媒体にして、目にみえないエネルギーのやりとりをするような、
ふたりの性も並列で育てていくことをおすすめします。
おたがいに仕事や家事、子どもとの生活など忙しいなかで、ふたりだけになれる時間と空間を確保して、おたがいをさらけだして、フォーカスしてふれあうという行為は、
マルチタスクが癖になっている現代人にとっては貴重な、ナガラではできないことのひとつかもしれません。(スマホを見ながらなんて人がいないことを願います。)
そんな貴重な時間を欲の処理タイムととらえるのではなく、ふたりで異世界にトリップするように、異次元にワープするように、
性愛の新世界にダイブしていくようなときをふたりで共有できるカップルが、もっともっと増えたらいいなと思っているので、
必要としてくれる人に、届くように、これからもっとはたらきかけていきます。
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きょうのインド料理は「Lemon rice」
サラッと仕上がるように湯炊きしたバスマティライスが熱いうちに、油で炒った皮つきピーナッツ、油で炒ったブラウンマスタードシード、ウラドダル、カレーリーフ、チリ、ターメリック、ヒングを加え、レモンのしぼり汁とコリアンダーリーフ、塩を加えて、ざっくり混ぜあわせる。
炒ったカシューナッツを加えてもいい。子どもたちが通っていたインドの学校で食べたレモンライスを再現してみた。ウラドダルとピーナッツのカリッカリがアクセントになってそれだけで食べてもおいしいけれど、チャトニー(インドディップ)がほしくなる。
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spice+arts やましたのぶこ
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